~「鬼は外」の鬼の正体とは?~
千葉県成田市の成田山新勝寺では、「節分会」が毎年の恒例になっている。
ニュースの映像では、大相撲の力士たちや歌舞伎役者、俳優や歌手などの芸能人が登場し、大勢の人たちに豆をまく様子が流れる。
節分といえば、立春の前の日を思い浮かべるかもしれないが、実は立夏、立秋、立冬の前の日もすべて節分であり、四季のある日本では節分、つまり「季『節』の『分』かれ目」は1年に4回ある。
そのなかで「春」が、節分の代名詞のようになっているのは、やはり冬から春に向かって日ごとに暖かくなり、生命の息吹を感じられ、心もウキウキ、ワクワクする時期であることが多くの人々に歓迎されたためであろう。
豆まきでおなじみの台詞が「鬼は外、福は内」だ。
文字どうり「福は内」は、家庭やお店などに福、つまりお金や幸せ、健康や繁栄を呼び込みたいという願いを表現したもの。
一方の「鬼は外」だが、「鬼」の姿を実際に見た人はいない。
しかも、姿が見えないからこそ、人々は鬼を恐れたのかもしれない。
多くの人が伏せったり死に至ったりするような疫病や、草木を枯らしてしまう病気の流行、原因不明の農作物の不作、突如として襲ってくる嵐や地震のような「恐ろしいできごと」が科学的に解明されていなかった時代、すべて鬼の仕業と考えても不思議ではない。
節分に豆をまくことで、そうした「鬼」を追い払おうとした……。
鬼の語源を「隠」とする説がある。
隠れていて姿は見えない存在でありながら、災いをもたらすことを表した言葉だ。
豆をまくことについても諸説あり、たとえば、「魔を滅する」ことから「まめ」をまくようになったというのもそのひとつ。
炒った豆を使うのは、生きている豆では「芽」が出てしまうため。
つまり、悪い芽を摘んでおこうとして豆を炒っておくというわけだ。
「豆を炒る」に「魔目を射る」という漢字をあてはめる地域もある。
「魔=鬼」の「目を射る」ことで無力化させようという思いから生まれたものだろう。