*⑅︎୨୧ ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ ୨୧⑅︎*
【 感想 】
かつての「性の営み」とはどんなものだったのか。
そこに日本人の本当の姿あったのかもしれない。
「村」はその開発者と子孫が中心になって運営される。
後に移住してきた人や、その子供は「村入り」しないと
村人とは認められなかった。
子供は宮参りすると村人として認められ、
初詣(はつもうで)を見物に来た子供達に
菓子や文房具などを配って、「子供組」に入れてもらう。
子供組は12歳か、14歳になると
子供組の「頭(かしら)」になった。
年長者が何人もいると、選挙して「子供大将」を決めた。
子供組の頭や大将は、子供達共同の遊び場所を決めたり、
村の行事や祭に参加したり、金を集めて運営の費用にした。
子供組には女の子も一緒、というところもあったし、
「女児組」という別のグループを作ることもあった。
大人達は子供組の自治には干渉せず、
ほとんど子供達だけでなんでも決めることができた。
子供組を卒業すると、その次はだいたい13歳から15歳で
「若衆組」に編入される。
若衆とは村の現役兵だった。
村の行事、祭、喧嘩仲裁などの自治・運営を担っていた。
若衆の年齢は、人口の大きな村だと15~25歳、
ちいさい村だと13~30歳くらいまでであった。
結婚すれば若衆卒業ということになっていたが、
ちいさい村であると結婚後も若衆に属していて、
40歳の若衆もいた。
若衆仲間を出ると、40歳くらいまでを「中老」、
中老を過ぎると「元老」と呼ぶ。
村によっては「取締」「肝入り」と呼ばれた。
女は13歳くらいで初潮が来ると「娘仲間」に入る。
娘仲間は「姉さん」を頭にして若衆仲間と交渉したり、
共同作業をする。
村によっては「娘頭」「姉頭」という呼ばれ方をしていた。
結婚すると「嫁仲間」や「嬶仲間」を結成し、
50~60歳にもなると「婆仲間」になった。
嬶仲間は女組の中心的存在となり、
男仲間との交渉時には代表として働いた。
夫と死別し、後家さんになると「後家仲間」を作ることもあった。
婆仲間になると「念仏仲間」なとともいわれ、隠居となる。
戦国時代まで遡ると、
この若衆のグループがそのまま軍団に加わった。
戦国時代になると5000人とか1万人といった大軍勢になるが、
なぜそんな人数を一度に招集でき、
ボスの指揮を受けて軍隊行動できたのか、
というと若衆グループに働きかけ、
戦線でもこのグループ単位で行動していたからだ。
だからこそ統制が取れていた。
そして戦争に負けて解散となると、
侍達がみんな落ち武者になったわけではなく、
それぞれの村に帰っていたわけである。
百姓一揆の時も若衆が活躍していた。
子供組や若衆は村の治安を守るための現役兵であったわけだが、
もちろんそれを指揮していた人間がいて、
それが村の本家の総領だった。
総領という機構のない村では、
地主や豪農などの旦那衆が指揮していた。
村の成年式というのがあって、だいたいは15歳からだが、
稀に13歳からという村もあった。
成年式は正月の4日から20日の間に催され、
この日のことを「日の出」と呼んでいた。
場所は村の公会堂、神社、寺院といったところで、
こういった場所で若衆頭からの規約、作法の伝授があり、
酒宴をして解散という流れだった。
若衆は村の現役兵であるから、検査があった。
四斗俵か五斗俵をかついで、百間くらい運ばせる。
そのために集会所の庭には普段から土俵が置いてあったし、
力石を置いて持ち上げさせて鍛錬させた。
ここで不合格になる体の弱い子供は、街に逃げるしかなかった。
川舟運送の盛んな村になると、合格すれば仲仕の仕事ができた。
(1斗約18.039リットル 四斗俵は72.156リットル。100間181.8メートル)
若者達の鍛錬の中には「マラカケ」と呼ばれる物があった。
茶瓶カケ、土瓶カケ、鉄瓶カケの三段階があり、
中に水や酒を入れて持ち上げた。
このテストでその少年の底力がわかるらしい。
と、最初は本を読んでいて「なんのことだろうか?」
と思っていたのだが、
どうも大きくしたイチモツに茶瓶やら土瓶などを引っかけて
持ち上げるということらしい。
大正や昭和初期の頃は、雨が降ると若衆達が納屋に集まり、
マラカケ競争をやって、
1位はタダ、2位は10銭、3位は1円などと決めて
酒や菓子などを買っていた。
つぎに続きます!´-
︎ ひかる ︎
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【 感想 】
かつての「性の営み」とはどんなものだったのか。
そこに日本人の本当の姿あったのかもしれない。
「村」はその開発者と子孫が中心になって運営される。
後に移住してきた人や、その子供は「村入り」しないと
村人とは認められなかった。
子供は宮参りすると村人として認められ、
初詣(はつもうで)を見物に来た子供達に
菓子や文房具などを配って、「子供組」に入れてもらう。
子供組は12歳か、14歳になると
子供組の「頭(かしら)」になった。
年長者が何人もいると、選挙して「子供大将」を決めた。
子供組の頭や大将は、子供達共同の遊び場所を決めたり、
村の行事や祭に参加したり、金を集めて運営の費用にした。
子供組には女の子も一緒、というところもあったし、
「女児組」という別のグループを作ることもあった。
大人達は子供組の自治には干渉せず、
ほとんど子供達だけでなんでも決めることができた。
子供組を卒業すると、その次はだいたい13歳から15歳で
「若衆組」に編入される。
若衆とは村の現役兵だった。
村の行事、祭、喧嘩仲裁などの自治・運営を担っていた。
若衆の年齢は、人口の大きな村だと15~25歳、
ちいさい村だと13~30歳くらいまでであった。
結婚すれば若衆卒業ということになっていたが、
ちいさい村であると結婚後も若衆に属していて、
40歳の若衆もいた。
若衆仲間を出ると、40歳くらいまでを「中老」、
中老を過ぎると「元老」と呼ぶ。
村によっては「取締」「肝入り」と呼ばれた。
女は13歳くらいで初潮が来ると「娘仲間」に入る。
娘仲間は「姉さん」を頭にして若衆仲間と交渉したり、
共同作業をする。
村によっては「娘頭」「姉頭」という呼ばれ方をしていた。
結婚すると「嫁仲間」や「嬶仲間」を結成し、
50~60歳にもなると「婆仲間」になった。
嬶仲間は女組の中心的存在となり、
男仲間との交渉時には代表として働いた。
夫と死別し、後家さんになると「後家仲間」を作ることもあった。
婆仲間になると「念仏仲間」なとともいわれ、隠居となる。
戦国時代まで遡ると、
この若衆のグループがそのまま軍団に加わった。
戦国時代になると5000人とか1万人といった大軍勢になるが、
なぜそんな人数を一度に招集でき、
ボスの指揮を受けて軍隊行動できたのか、
というと若衆グループに働きかけ、
戦線でもこのグループ単位で行動していたからだ。
だからこそ統制が取れていた。
そして戦争に負けて解散となると、
侍達がみんな落ち武者になったわけではなく、
それぞれの村に帰っていたわけである。
百姓一揆の時も若衆が活躍していた。
子供組や若衆は村の治安を守るための現役兵であったわけだが、
もちろんそれを指揮していた人間がいて、
それが村の本家の総領だった。
総領という機構のない村では、
地主や豪農などの旦那衆が指揮していた。
村の成年式というのがあって、だいたいは15歳からだが、
稀に13歳からという村もあった。
成年式は正月の4日から20日の間に催され、
この日のことを「日の出」と呼んでいた。
場所は村の公会堂、神社、寺院といったところで、
こういった場所で若衆頭からの規約、作法の伝授があり、
酒宴をして解散という流れだった。
若衆は村の現役兵であるから、検査があった。
四斗俵か五斗俵をかついで、百間くらい運ばせる。
そのために集会所の庭には普段から土俵が置いてあったし、
力石を置いて持ち上げさせて鍛錬させた。
ここで不合格になる体の弱い子供は、街に逃げるしかなかった。
川舟運送の盛んな村になると、合格すれば仲仕の仕事ができた。
(1斗約18.039リットル 四斗俵は72.156リットル。100間181.8メートル)
若者達の鍛錬の中には「マラカケ」と呼ばれる物があった。
茶瓶カケ、土瓶カケ、鉄瓶カケの三段階があり、
中に水や酒を入れて持ち上げた。
このテストでその少年の底力がわかるらしい。
と、最初は本を読んでいて「なんのことだろうか?」
と思っていたのだが、
どうも大きくしたイチモツに茶瓶やら土瓶などを引っかけて
持ち上げるということらしい。
大正や昭和初期の頃は、雨が降ると若衆達が納屋に集まり、
マラカケ競争をやって、
1位はタダ、2位は10銭、3位は1円などと決めて
酒や菓子などを買っていた。
つぎに続きます!´-
︎ ひかる ︎
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