ひとみ【M女】
玲子(れいこ)【女王様】
【店長コラム】創戯旅団 第36夜 東日本大震災・福島第一原発核爆発
※2024年11月19日16時47分
東日本大震災の年は奇妙な年明けを迎えていました。2010年の後半に父の会社は倒産が確定したのですが、そこから銀行や取引先との交渉を、私が全てやっていました。父はポンコツになってしまっているので、私が最後の残務処理をを任されるというよりかは、私以外にやれる人間はいませんでした。もう決定的な違和感に襲われましたよね。あれ、父には会社が潰れている認識はあるのだろうか?お金を払えていない自覚もあり、会社が潰れるという現実を私に伝えてはいますが、全く会社が潰れた自覚を持っている様には見えないのです。私が全ての関係者と連絡を取ってやり取りをしていても、最後まで見守っている姿勢はありません。ん?碁会所に行ってしまってないか?もう違和感しかないですよね。父に取って仕事とは何なのか?半分ボケていて、ボケながらも仕事を出来てしまっているのか?これは一体何だ?と私も疑問です。しかし、過去にも父は会社を立ち上げてはいたものの自分の会社を追われる形で辞めています。父が40代の頃の話しです。仮に一流企業ならば、業績不振で責任を社長が取るのは分かります。しかし、町工場の様な立ち位置で社長が会社を追われるのは不自然です。それ、潰してしまうのが一番利口じゃない?と私は思います。社長を追い出しても何の得にもならないのに番頭さんは引き継いで仕事をしたそうです。結果として新社長になった番頭さんは会社を潰さずに頑張ってはいましたが病気で早くにお亡くなりになったそうです。その間に父は新会社を立ち上げて、しかも創業から30年を経過する会社にしてしまったのです。しかし、私は父の会社で働いていたにも関わらず、父の会社を継ぐ気持ちは全くありません。どこかのタイミングで父に会社の経営を辞めさせる事ばかり考えていました。もう従業員の皆さんにも充分に尽くした会社にはなったでしょう。私は父を見て育ってますし、それこそ母の父に対するグチを聞いているのです。最初から上手く会社は立ち上がってないだろ?という目線でずっと眺めているのです。しかしですよ。いろいろな人の生活が乗っかり会社が回り始めると、真実を直視せずとも会社は動くのです。毎年少しずつ借金を増やしながら、最終的には1億2千万円まで会社の負債が膨らんだ時点でようやくパンクしたのです。やはり長年積み重ねて来た借金の精算を求められている現実にしか見えません。父が確信犯であるなら、それこそ一流の詐欺師かもしれませんが、計算して動いている様には見えないから落第点です。そんな大変な年明けでしたが、仕事として淡々と銀行と取引先から私がフルボッコになる毎日でしたね。さらに会社の中にある在庫品をお金に変える仕事も残っています。私がしていた仕事は本来社長の仕事ですが、文句は言わずに黙々とこなしました。残って残務整理を不安そうに手伝って下さっていた会社のスタッフには頭が本当に下がりました。お給料が未払いになる事はないから安心して下さいと心配事を取り除いてあげながら働きましたね。なので、その前年の10月以降は会社が倒壊し、倒壊した後の撤去作業に追われる毎日を過ごしていた様なものなのです。その最中にあの3.11を迎えたのですから、私は2重の被災を経験した事になります。
その日は15時から大手ホームセンターの商談が入っていました。バイヤーさんが店舗の売り場担当だった時代から
懇意にしていた方だったので、残った在庫品を買って貰う商談のアポイントを取っていたのです。あの時間帯はそのホームセンターの本部がある埼玉県まで来ていました。ホームセンターの駐車場に入った瞬間に聞いていたラジオから緊急地震速報が流れ、程なくして揺れが始まり大きな揺れへと繋がっていきました。2階建ての立体駐車場に車を停めた直後だった私と部下は急いで地上へと下ります。たまたま、車の中にいたのは不幸中の幸いでした。埼玉県の揺れ自体は震度5強でしたが、地鳴りがしていたりホームセンターの窓がピシピシと軋んでいたり、近くを走っている高速の高架が波打って揺れていたり、その後の余震の多さと余震の大きさから判断しても他地区で大きな地震があったのは予測出来ました。日本海中部地震の時に、千葉県は震度4であったにも拘らず地鳴りがしていたのを経験していましたので、日本列島のそれなりの地域が揺れていた事は想定出来ました。しかも建物から外に避難して来たバイヤーさんが、たまたま福島県のいわき市にあるお店のスタッフと携帯で話していたので、東北地方の揺れが大きかったのもリアルタイムに分かりました。私と部下はバイヤーと話し合い、その日の商談を中止にして千葉県にある自分達の会社に戻る事にします。いつまた揺れるか分からないので、高速を使わずに下道で帰る選択をしました。車のナビでテレビを見ていましたので、大津波警報が出されたり、津波が到達した後は悲惨な光景が広がったのを見て驚いていたのを覚えています。国道16号で埼玉県から自分達の会社がある千葉県八千代市へと部下と共に戻ったのですが、通常2時間半で戻れる距離を5時間近くかけて戻りました。帰ってきた時には夜の20時を過ぎていましたね。国道16号を走って帰る途中に驚愕したのは、僅か震度5強でゴルフ用品店が半壊していたのを目撃した事でした。いやいや、おかしいですよね。震度5強の揺れで半壊してしまうという事は耐震偽装の建物ですよね。主要国道の信号が消えていて怖い思いもしましたし、千葉県に入ると停電している地区は真っ暗です。私の父の会社のある地区もあの日の夜は停電していました。本社と呼ぶのも恥ずかしい平屋のプレハブ小屋でしたが、まあ逆にショボ過ぎて無事でした。しかし、ウチの会社が無事だった事より、残務整理が滞る事の方が問題です。建前上、銀行には再建計画書を提出していましたが、その後直ぐに東日本大震災ですからね。これには、精神的に落ち込みましたよ。何か有事がある度に大ダメージを受けていては、借金経営の脱却など最早不可能です。真面目にコツコツと仕事をしたいのであれば、少なからず借金の無いフラットな状態が条件になります。1億2千万もある借金を背負いながら、コツコツと働いて借金を返すのは無理でしょうし得策ではありません。私は一瞬で1億2千万円の借金がチャラになる魔法を使う選択をしました。魔法ですから永遠にプラスになる事も無くなりましたけど、元より永遠にプラスになる事が見込めない状況なのですから同じ事です。ここに銀行が画策した私に借金を背負わせる企みは完全に頓挫したのです。それでも銀行は損をしない保険に入っているのでしょうから、私が責任を負う必要もありません。最初からこうなる事を読めていたから、私は会社を継ぐ父の提案を断固として拒否し続けていたのです。東日本大震災の年の6月に、残りの残務整理を父に任せて、私は無職となったのです。40代になったばかりの私でしたが、次に選択する仕事を人生最後の仕事として全うする考えでいました。そのつもりで働かないと一人前に食べていく事など到底出来ないでしょうから。しかし、私に何が出来るのだろうと真剣に考えた時に、武器になる飛び道具も人脈も持っていない事が大問題でしたね。当時の仕事仲間や取引先からも声はかかりましたが、薄利多売の物販の世界に継続して身を置く事はもう無いだろうと考えていました。そうなるとやはりもう一度、風俗業を真面目にやろうとなりましたね。思い返せば、20代半ばで早々と風俗の世界に飛び込んだ時も、薄らとではありますが、物販に魅力を全く感じていなかった事と、父の会社が十中八九潰れる事を念頭においていたのです。その時の保険をいよいよ使うべき時が来たなと決断をしたのです。私はこのブログにも以前から良く登場している悪友S君に相談をし、さらに後一人の人物を介する事で、師匠との面談に漕ぎ着けます。それが7月中旬の話しだったと思います。
さて、ではエレガンス側のオープンはどうなったのよ!?問題がありますね。残念ながら、今回その話しをする事はありません。そこはそこで話しが面白過ぎだったので別立てでいずれ話す事にします。1,000文字ちょいで語るには勿体無いネタですからね。問題児2人はどうなったかも面白いですし、最初の立ち上げが微妙にスベっているのも何でやねん!とツッコみたくなる所です。もう3か月先位までの話しのネタは決まっていますが、その中にこの話しはちゃんと組み込まれていますのでご安心下さいませ。これで語るのを忘れてしまうボケたお爺さん風の展開は回避出来そうです。
7月の中旬に私は千葉県から厚木市にやってきました。師匠の面接?面談を受ける為だったのですが、その前に師匠の腹は決まっていたのでしょう。師匠の提案としては、その時エレガンスにいたスタッフが使い物にならないのでクビにするから、お前そのポジションに入れという提案でした。私としては雇って貰えるなら業種もポジションも拘りはありませんので、断る理由がありません。ノータイムでお世話になりますと即答しました。仕事柄、免許が絶対に必要になりますので、合宿免許に行く時間だけ下さいとお願いして9月から仕事をさせて貰う事に決まりました。11年ぶりの師匠と私のタッグ再結成となったのです。厚木USAなるピンサロを立ち上げたコンビです。その時は紆余曲折ありながらも立ち上げは大成功しました。果たしてこのコンビが再び奇跡を起せますかね。2人とも歳を取りましたから。さて、ここから先のエレガンス立ち上げの苦労話しはもう話していますので、ここまでが東日本大震災回のお話しとなります。東日本大震災に付随して福島第一原発の爆発もありましたね。しかし、私は千葉県にいましたし、エレガンスも神奈川県にありますから直接の被害がありませんので語る事は少ないです。もし、あるとしたら多少の被曝は覚悟しておかなければならない事くらいじゃないですか。当時、YouTubeでドイツの報道番組を見ていたのですが、原発爆発の放射能は全世界に飛散したそうです。孫正義が福島の子供達だけでも県外に疎開させる案を官邸に進言しに行った事も本で読んだ事があります。これ即ち、核爆発を起こしたという証明です。古舘伊知郎も報道ステーションの原発爆発特集回の最後の語りの中で、テレビでは表現したくても表現出来ない事が沢山あり歯痒いと発言していましたね。あの人の言葉の言い回しは最早芸術品だと私は本気で思っているので、どんな気持ちで歯痒いと表現したのか心中を知りたくなります。当時、世間では核爆発という言葉を使わずにメルトダウンという言葉に置き換えていましたね。東電もマスコミも政府も核爆発という言葉を使いたがりませんでした。核爆弾の爆発ではありませんので人が沢山亡くなってはいませんが、第2次世界大戦末期のあの広島や長崎と同じか、寧ろそれを超える被爆者を出したのが福島第一原発の爆発だったと私は捉えています。ケロイドの様な直接的でグロテスクな被害を出さずにジワジワと被爆者を増やし続けているのだから、手の打ちようも無いでしょう。そんな爆発を引き起こしているのだから関東近県の人間に全く健康被害が0だと私は言い切る根拠を持ちません。煽る様な事とも思えませんが、被曝してしまった覚悟くらいは持っています。私は中学生の時の修学旅行が広島で、それこそ原爆の怖さを学ぶ修学旅行でした。ザ・デイ・アフターという核爆発を題材にした映画を学校の授業で見させる様な中学に居たので、ただのSMクラブの中の人である私が無駄に核爆発の怖さを語れるのです。ん?きっちり原発の爆発までも語り上げとりますな。今回はここいらで締めましょう。纏り無く着地すらしていない回でしたが、事実を語り上げるミッションだけは必達しましたね。次回は舞台を令和に移し、世界中を大混乱へと導いてしまったあの話しです。またもや回避不能な不幸が日本国民全員を相手に大暴れします。では、次回も不幸回。